島の歴史

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壱岐の歴史をまとめてあります。全国の中でも一つだけ胸を張って言えることは、壱岐が律令制度の中、日本中の国(くに)の中で最も小さいながら一国として認められていたことです。それ故、国に一つだけ置かれる国分寺も、安国寺も存在しました。東北などの広さを考えるとその扱い、重要度は破格だったという訳です。今でも豊穣の島として、海産物、農産物共に島民全ての胃袋をまかなうに足るほど十分な量があるほどです。

そんな私たちが誇りに思うこの島の歴史を簡単な資料よりまとめました。壱岐って何?どんな歴史を持っているの?とお思いの方はぜひこのページをご覧になってください。もっと壱岐を身近に感じて頂けるはずですよ。

原始・古代の壱岐

主に紀元前2・3世紀から紀元前3世紀頃までが弥生時代である。集落は、外濠、中濠、内濠、の三重以上の環濠に囲まれ、南北約850メートル、東西約350メートルのだ円形をした大規模な環濠集落である。その中からおびただしい遺物が出土している。それらは、平成7年4月に開館した「壱岐・原の辻展示館」に収納されている。

このほか、壱岐の弥生遺跡は、代表的なカラカミ遺跡・天ヶ原遺跡をはじめ数多くが全島に分布し、古代文明の花を開かせていたものと推測できる。

5世紀から7世紀になると、壱岐国は古墳時代を迎える。この頃になると、勢力をもつ豪族たちが、巨大な古墳を次々に造営した。これらは、鬼の岩屋とよばれているもので、円墳が主で、江戸時代の記録には、338基とあるが、現在は半壊したものを含めて270基が残っている。この数は、実に長崎県全体の古墳の約半分を占めている。当時はいかに繁栄した島であったか、多くの古墳が物語ってくれる。

古墳の壱岐国は、大陸と日本との二つの文化圏の接点として、最も新しい華やかな文化を開花させていた。遺新羅使・遣勃海使・遣随使・遣唐使などの使節団は、壱岐を寄港地として往来した。大陸文化も壱岐を窓口として流入してきた。まさに壱岐は、日本とアジア大陸を結ぶかけ橋であった。

しかし、いったん外交上不利な問題がおきると、国境の島としての宿命はさけがたく、国防の最前線として、幾多の外敵の侵入をうけ、悲しい歴史を生むのである。

天智2年(663)日本の水軍は、白村江の戦いで大敗した。これから、唐・新羅の侵入に備えて、壱岐は国防の最前基地となり、翌年には防人と烽(とぶひ)が置かれた。防人は国境守備兵であり、烽(とぶひ)は狼煙のことで、夜は火の光によって、昼は煙によって、危急を知らせる施設である。

天平13年(741)聖武天皇の発願により各国に国分寺が設置されたが、天平16年(774)7月壱岐にも島分寺(国分寺)がおかれることが決まった。壱岐では壱岐直の氏寺があてられた。

律令の制度(奈良・平安時代の法令)では、壱岐は辺要の地と規定され、国司がおかれ、国境防衛と外交の任にあたった。

9世紀末には、新羅人や正体不明の海賊による侵入が目だって増大する。寛仁3年(1019)大事件がおきた。刀伊の賊の襲来である。刀伊とは中国東北部にいた女真族である。50余隻の船で侵入した刀伊の賊は、壱岐に上陸すると悪鬼のような乱暴をはたらき、国司藤原理忠とその手兵はことごとく戦死した。壱岐の被害は、殺害された者は148人、奴隷として連れ去られた者239人、わずかに生き残った者35人という痛ましい数が記録されている。

中世の壱岐

鎌倉時代の壱岐国の守護は、文永10年には武藤(少弐)資能であったという記録があり、これ以後、鎌倉期を通じて守護職は少弐氏が保持していたとみられている。国境の最前線である壱岐は、常に外敵の脅威にさらされており、元冦(文永・弘安の役)では、壊滅的な打撃をうけた。

文永11年(1274)元・高麗あわせて約4万の大軍が、900の艦船に分譲して合浦を出発した。10月5日、対馬が襲撃され、10月14日、壱岐の北西海岸に上陸した。守護代の平影隆は御家人百余騎で迎え撃ったが、圧倒的な兵力をもつ元軍らの攻撃により、居城の樋詰城に退き、翌15日全滅した。下人の宗三郎は博多へ、壱岐の状況を報告した。壱岐は、元軍らの残虐行為により荒廃してしまった。

壱岐の受難は続いた。7年後の弘安4年、東路軍4万、江南軍10万の連合軍を編成し、再び侵入してきた。伝承によれば、当時、壱岐に鎮西奉行少弐経資の子、資時が守護代として在島し、5月21日の戦闘で戦死したという。また、元軍らは残虐の限りを尽くし、壱岐は死の島と化した。元軍は6月下旬に、壱岐周辺に集結した。6月29日から7月2日にかけて、肥前・肥後・筑前・薩摩の御家人は、壱岐の瀬戸浦で元軍の大船団にゲリラ的な攻撃を行った。弘安の役の結末は、7月30日の夜、大暴風雨によって元軍は壊滅した。このように、元冦(文永・弘安の役)は、壱岐に無残な傷跡を残して終わった。

元冦が終わると、壱岐には九州本土に逃れていた人々や、新たに壱岐に所領を与えられた人々が移住した。そのなかで永仁元年(1293)唐津・岸岳城主波多宗無が武生水村に進出したのをはじめ、石志・志佐・山代などの松浦党の諸氏が壱岐に渡り、徐々に松浦党の勢力下に移って行った。 南北朝期、全国に安国寺が建立されたが、壱岐では深江の海印寺を拡張補修し、安国寺にあてた。開山は、無陰元晦和尚である。応永3年(1396)12月5日顕悦和尚が、壱岐安国寺の住持になった補任状がある。

南北朝期から戦国期にかけて、壱岐の豪族は朝鮮に船を出し、貿易を行った。しかし一方で壱岐は、倭寇(日本の海賊)の根拠地の1つでもあった。つまり、壱岐の豪族の貿易船と倭寇は一体のものであった。その主たる者は、松浦党である。「海東諸国紀」には、まず壱岐島の概略を記し、次に、志佐・佐志・呼子・鴨打・塩津留の松浦党の五氏が分治し、七郷・十三里・十四浦が記されている。

明4年(1472)11月18日に、突如、肥前上松浦の岸岳城主波多泰が、壱岐に攻め込んできたのである。それまで壱岐を支配していた志佐氏ら五氏は、結束して湯岳の都城(芦辺町)で防戦したが、かなわず波多氏の軍門に降る。壱岐を所有した波多氏は、壱岐守護と称し、さきに波多宗無が築いた亀丘城(郷ノ浦町)を修築し、一族の者を留めて統治にあたらせた。

波多氏は、泰・興・盛と三代続いたが、盛に嗣子がいなかったため後嗣をめぐって波多家に内紛がおきる。弘治元年(1555)俗に六人衆とよばれる壱岐の代官らによって、亀丘城代の波多隆が討たれ、翌年には弟の波多重も討たれた。

波多氏は、泰・興・盛と三代続いたが、盛に嗣子がいなかったため後嗣をめぐって波多家に内紛がおきる。弘治元年(1555)俗に六人衆とよばれる壱岐の代官らによって、亀丘城代の波多隆が討たれ、翌年には弟の波多重も討たれた。

一方、岸岳城内では、波多氏とその家臣の日高甲斐守との抗争があり、永禄7年(1564)、日高氏は同士とともに波多氏を追放し、岸岳城を乗っ取った。さらに日高氏は、余勢で壱岐に渡り、六人衆を討ち、波多政を壱岐城代とした。

岸岳城を追われた波多氏は、佐賀の龍造寺氏、島原の有馬氏の援助を受けて、岸岳城の奪回にでた。日高氏は、平戸の松浦氏に助けを求めたが、援軍がまにあわず、戦いに破れ、壱岐に逃れた。日高氏は、さきに擁立した波多政を自ら討ち、壱岐の主権を掌握した。

岸岳城を奪回した波多氏は、元亀2年(1571)対馬の宗氏に応援を求め、壱岐の日高氏を攻撃する計画をたてる。同年7月、対馬守の弟采女介を主将とする宗氏の軍勢が壱岐の浦海海岸(勝本町)に上陸したが、松浦・日高の連合軍により大敗した。これより、日高氏は松浦氏に従属することとなり、壱岐国は平戸の松浦氏の領有となるのである。

近世の壱岐

天正19年(1591)豊臣秀吉は、朝鮮出兵(文禄・慶長の役)に当たり、壱岐国勝本城(勝本町)の構築を平戸の松浦鎮信に命じた。松浦氏は、有馬・大村・五島の諸氏の応援をえて、この出城を短期間に竣工させた。壱岐からの従軍者は、壱岐城代の松浦信実をはじめ、日高甲斐守らの300余人が出陣している。文禄2年(1593)朝鮮へ従軍した日高甲斐守は、平壌城の戦闘で主従36人とともに戦死した。

平戸の松浦鎮信の時代は、秀吉の九州征伐、朝鮮出兵、関ヶ原の戦いという一連の歴史的事件があった。これらを通して、平戸の松浦氏は戦国大名から近世大名への転換をし、幕藩体制のもとにその地位を確定していくことになった。初期の主印高は6万3,200石。寛文4年(1664)以降は6万1,700石となった。

平戸藩の壱岐統治は、次のように行われた。島は在(農村)と浦(漁村)とに分けられ、在は、24村、浦は、8浦に区分された。在の者は農業、浦の者は漁業・回船・商業などによって生計を立てさせた。

政治機構としては、城代が置かれ、下には郡代2人(壱岐郡と石田郡)がつけられた。城代と郡代はともに平戸藩が派遣した。その下には代官4人がつき、24村を東目・西目・南目・北目と分けて6カ村ずつ担当させた。各村には床屋を置き、その下には触ごとに朷頭(百姓頭)を置いた。浦には浦ごとに浜使を置き、郷ノ浦にこれを統一する浦役が置かれた。浦役は代官とともに郡代に所属した。

土地は、地割制度がとられた。家族の労働力に応じて公平に田畑を割り渡すのである。この制度は農民に耕作の義務をおわせ、均等な年貢の維持が目的であった。

朝鮮通信使とは、朝鮮が日本に派遣した修好使節である。この通信使の迎接を、平戸藩は壱岐国勝本浦で行った。通信使が通過する沿道の諸大名は、すべて自前で一行を応援し、道路の整備や宿泊所の建築、行列の警固などが課せられた。これらの費用は巨大なものとなり。文化8年には対馬で一行を迎接する易地聘礼となり、簡略化された。

近世の産業のなかで鯨組(捕鯨業)はとりわけ大規模で、 800人を超す人々を要した。鯨は初冬にはオホーツク海から日本海を通って東支那海に南下する。早春には南から北へと逆上する。これらの下り鯨、上り鯨の通り道に壱岐があるため、多くの鯨組の基地ができた。特に瀬戸の恵美須、勝本の田ノ浦は最高の漁業基地であった。

平戸藩は、この莫大な利益を生み出す鯨組に着目し、運上銀と称する租税を徴収し、多額の御用金を課している。壱岐での捕鯨は、明応2年(1493)に始まり、江戸時代中期が最盛期であったが、以降徐々に衰退し、明治30年(1897)をもって終わった。 幕府の巡見使は、諸国を回って地方政治の良否を視察して復命する役で、将軍の代替りごとに派遣された。宝永7年(1710)の巡見使の一行に、河合曽良が同行している。曽良は、松尾芭蕉に師事し、「鹿島紀行」や「おくのほそ道」の旅に随行し、「曽良旅日記」は広く知られている著書である。ところが、曽良は壱岐国内の巡見の折、勝本浦で客死したのである。

末期の壱岐は、異国船の警固に追われたが、その中心は勝本浦に設けられた押役所で、厳重な防備がなされた。慶応年間(1865~68)に壱岐沖を通過した異国船は、毎年100を超えたが、攻撃を受けることもなく明治時代を迎えた。明治4年(1871)廃藩置県により、平戸県となるが、11月には新しく長崎県は成立し、壱岐は長崎県に所属した。

(長崎県壱岐支庁発行:壱岐島勢要覧より抜粋)